ワイルドスピードのメガヒットにより日本車の人気は確固たるモノになったのも、今となっては当たり前の話。
巷でやんや言われている25年ルールのおかげで、90年代を駆けぬけたスポーツカーたちは流出の危機を迎えている。
そんな中、世界での日本車スポーツカー人気に先駆け、2000年にプロドリフト選手権が発足した。
発足以降、海外開催のみなら派生形の国際シリーズまで誕生することになった一大ムーブメントが。20年を超えて円熟の時を迎える今、大きな変化を迎えている
「走り屋どもを峠からサーキットへ」
「峠の走り屋」といえばスポーツカーの象徴でもあり、世間からは「危険走行する暴走族」の烙印を押されることだってある。良くも悪くも、グレーゾーンギリギリのアンダーグラウンドな世界には胸躍らせる興奮が詰まっていた。
だけど、それまでだ。
彼らは峠でパフォーマンスを魅せるだけで、それ以上は何もない。素晴らしいドライバーとしての素質を持っているのに、ギャラリーのわずかな歓声と警察の厄介を受けるだけで、あとがつながらない。
そこで、峠出身GTドライバー土屋圭市とOrtion総帥稲田大二郎が発起人となり、「アイツらの好きなドリフトで飯が食えるようにしてやろう」と思い立ったのが全日本プロドリフト選手権(通称:D1グランプリ)誕生のきっかけだ。
D1グランプリの歴史変遷
初開催から20年以上たつD1グランプリには幾多の歴史がある。
栄光も対立も嫉妬もやっかみもあったからこそ、D1は新たな歴史を作っていくことができた。
始まりは賞金付きの草レース
2000年初頭の出来たばかりのD1は、誤解を恐れずに言うと「草レースの延長戦」のような存在だった。大半の参加ドライバーたちにスポンサーがついておらず、あくまで主役は「ドリフトの上手な走り屋たち」だった。
クルマはいかにも峠で走ってそうな街乗り仕様のシルビア、AE86、チェイサーが多く、一般的な草レースと遜色ない存在だった。それでもスゴ腕のドリフト野郎を一目見ようと、全国から走り屋とギャラリーが集結した。
ワークス体制とタイヤメーカー参戦
2002年にBLITZがチューナーワークスとして野村謙のサポートを始めたのを皮切りに、好成績を残せるドライバーにはワークスのシーズンフルサポートが受けられるようになった。HKS、トラスト、RE雨宮など、名だたるチューナーたちが参入することに。
更にタイヤメーカーも公式に大会に参加。トーヨータイヤ、グッドイヤー、ブリヂストン、ダンロップ、ファルケン、ヨコハマなど、様々なメーカーがサポートするカタチに。既にこの段階で草レースという段階は通り越し、スポンサーを抱えた本格的なレーシングカテゴリーとして確立していたのだ。
2000年代中盤から継続的に海外ラウンドを開催したり、お台場特設コースや鈴鹿サーキットを使用したりするなど、興行的にも大きな変革を迎えることになる。これが功を奏し、D1グランプリは巨大イベントへと進化を遂げることになる。
競技レベルの向上と運営側の対立
2000年代~2010年代にかけて巨大イベントに変貌を遂げたD1グランプリだったが、この頃から問題点も浮き彫りになる。
相次ぐメーカーの参入やスポンサードによって競技レベルは10年足らずで飛躍的に向上。街乗り仕様のカスタムカーではなく、完全なドリフト専用レーシングカーとして開発されるように。開発費は数千万円以上に膨らみ、個人ではとても手が届かないレベルになってしまった。
当初、土屋圭市が構想していた「走り屋をサーキットに」という理念からはかけ離れ、ちょっと腕の立つドリフト野郎であろうとも、容易く参戦出来ないような状況になってしまった。さらにこれまでは審査員による採点で行われていたが、競技性向上を理由に衛星システムDosによる機械式採点方式に変わり、これがきっかけで土屋圭市はD1から姿を消すことになる。
「競技性と公平性の両立」はモータースポーツではしばしば議題に上がるが、D1もその渦中に飲み込まれ、結果当初の理念に背く結果となってしまった。「何が正しくて、何が間違いで、どこを目指しているのか」はモータースポーツの宿命ともいうべき永遠の課題なのだ。
アジアタイヤ参戦と派生シリーズへの参加
もともとは古株のタイヤメーカーが多数参戦していたD1だが、トーヨータイヤ以外はすべて離脱してしまっている。その代わりにアジア系タイヤメーカーの参入が多くみられるようになった。リンロン、サイルン、ヴィトール、ヴァリノ、ナンカンなど新興勢力の顔が目立つ。
また、ここ数年になってフォーミュラDやFIAインターコンチネルドリフティングカップなど、国際規模で開催されるドリフト競技イベントが増えたため、D1と並行もしくはD1に一切参戦せずにそちらに参加するドライバーも現れるように。
2016年にチャンピオンになった斎藤大吾は、前年チャンピオンであるにも関わらず2017年は一切参加していない。他にも好成績を残しているにも関わらず、D1以外のシリーズへ参加するドライバーが散見されるようになった。
今もドリフト競技の最高峰というのには変わりないが、クルマ離れ進む日本よりも、日本車人気が進む外国の方がウケがいいのは間違いなさそうだ。
昔の方がよかった、との声も
初開催から20年、D1グランプリの競技レベルは飛躍的に向上した。
エンジンパワーも今は1000馬力が当たり前。2000年代は500馬力でもモンスターマシン扱いされていたのに。内装ドンガラどころか、最近はパイプフレーム化までするようになった。
昔よりもドリフトの迫力は増した。スピードやタイヤスモークは初期とは比べものにならない。またドライバーのレベルも底上げされたのでビタビタの追走が当たり前のようになった。
だが逆に、「今のD1よりも昔の方が好きだった」という声も聞こえる。
特に機械式の採点方式には疑問を呈する声が大きい。確かに機械なら公平かもしれないが、それゆえにドリフトが「魅せる走り」ではなく「機械からいい点数をもらうための走り」になってしまったことは間違いない。
土屋圭市はじめ審査員たちが「100てーん!いいぞーー!!!」と叫び採点するスタイルには、ドリフト競技ならではの良さがあったように思える。どちらがいいとも言い切れないから歯切れが悪いが、モヤモヤしたものを抱えているファンは少なくない。
こんなことを言うと「あぁまたオールドファンの古臭いオヤジだ」なんて思われてしまいそうだ。だけど、昔は今にはない胸躍らせるワクワク感にあふれていたのだ。
ハイパワー車でなければ勝てないのは分かる。勝つためのプロセスが大事なのもわかる。
だけどそれゆえに似たようなパッケージばかりになってしまっては面白くない。2JZ・VR38搭載のシルビア・100系が定番なのはわかる。ドリフトのために研究されつくしたクルマの方が開発だってしやすいという理屈もわかる。
だけど時々、昔のAE86のように、非力なライトウェイトスポーツカーが軽さを武器に大排気量マシンを打倒していく姿を見たくなったりもする。ロードスターやクラウンなど、マニアックなドリ車たちが暴れまわる姿も見たかったりして。
最近のD1が悪いとか、そういうことじゃない。もう20年もやってるから、やる側も見る側も成熟してきているのだ。
きっとまた心の底から「D1見たいな」と思える日が来ることを心待ちにするばかりだ。